(七)はじめに ── これは退却戦か? これは退却戦か? という疑問も当然予想されます。わかりません、と私は答えるしかありません。わかりません、わかりません、わかりません、というのが、私の主題のひとつでもあるでしょう。 トーマス・マンをちょっと引用してみます。
私がここまでいってきたことのなかで、なにがいまの引用のうちの「共同体」であって、なにが「真理の犠牲において共同体に奉仕しようとする思想」であり、なにが「真理」なのか、もう一度考えてみてほしいんです。 あるいは大西巨人。
同じく大西巨人。
しかし、私はとにかくここに書きはじめたわけです。なんとかこれをつづけたいと思っている。私は商売に向いていないだろうと思いますが、しかし、それでも私のような者を必要としている少数のひとがいるにちがいない、また、私のような者を必要としているにもかかわらず、まだその自覚のない少数のひとがいるにちがいない、と考えてもいるんです。私は誰にも彼にも必要とされたいなどとは全然考えていません。 また、こうも考えられますね。つまり、私がこんなことをやろうがやるまいが、読むひとは読むし、読まないひとは読まないのだ。これについては、はっきり「そうではない」と私はいうことができます。私の勤める書店の店頭で、私が薦めなかったらカート・ヴォネガットを一生読まずにいたひとがいる、あるいはドストエフスキーを、あるいはジュリアン・バーンズを、あるいは辻邦生を、あるいは森敦を、あるいは松沢呉一を、あるいは……。それは確実にそうです。それを私ははっきり知っているといえます。この手応えを知っていなかったら、たぶん私はこんな企てを起こさなかったと思います。 「誰も彼も」が私の薦める作品を読まなくてはならないなんてことはないんですが、ごくわずかな数にせよ、ほんとうはその作品を読むべきなのに読んでいないひとがいる、自分がその作品を読むべきなのだということにまだ気づいていないひとがいる、と私は考えています。そういうひとがこのホームページにたどり着くという確率も考えにくいんですが、それでも扉は開けておいた方がいいだろうと思うんです。そのひとにとって機会は多いほうがいいわけです。 しばらく前に私はこう書きました。「私が読書案内をしたいのは、いくらかでも「背伸びをする」つもりのあるひとたちです。いまの自分には容易に理解できない作品・手強いと感じる作品に手を伸ばすつもりのあるひとたち。いつかは自分にもその作品を読みこなせるようになるのではないか・その作品と自分とにはきっとなにかしらの大事なつながりがあるのではないか、と思っているひとたちです。」 そのひとたちに作品を引き合わせたいし、そのひとたちが読みはじめて感じるはずの抵抗感をできるだけ払拭しておいてやりたいと思うんです。 逆に、作品にとっても、本来はもっと読まれるべきなのに実際はほとんど読まれていないというものがあるはずです。
とにかく始めてしまいます。それに、全体をいっぺんに説明しようとも思っていないんです。先は長い。私の話は繰り返しばかりになるでしょうが、その繰り返し具合・重なり具合がやがては全体を示すことになるのではないか、と思っています。 |